核情報

2006.3.30

東海村でのプルトニウム行方不明事態2件 206kgと70kg

1)再処理施設

北朝鮮のNPT脱退騒ぎの陰に隠れてしまったが、2003年1月18日、文部科学省は、1977年操業開始から2002年9月末までの間に、この施設で累計206kgのプルトニウムが計算上行方不明になっていると発表した。この間に施設では、1003トンの使用済み燃料が処理され、6.9トンのプルトニウムが回収された。この過程で施設に入ったはずの量と、回収された量との間に206kgの差が生じたというのである。そもそも施設に入った量というのは、原発での出力レベルや期間を考慮して計算した数字だから、最初から不確かさが伴う。そして燃料棒を剪断し、溶かして溶液にした際に、サンプルを取って分析して、全体ではこれだけあるはずだと推定するというような作業の連続のため、206kgの行方不明というのが、実際に無くなっているのか、計算上起きているだけなのか定かでない。最終的に、同年4月1日、文部科学省は、計算の合わないのは、59kgだけだとの結論を発表した。残りの147kgは、検討作業の結果、燃料被覆管剪断片(ハル)等に付着したもの、プルトニウム241の崩壊による「核的損耗」、溶解残滓(スラッジ)等の一部として高レベル放射性廃液貯槽に流入したもの等として確認されたという。その「作業結果に基づいた修正後の累積SDR(受払間)差異(59kg:処理Pu全量の約0.9%)は、関連する測定や計算の誤差に照らし妥当な値であると考えられる。」という。つまり、約1%程度の誤差はしょうがないというわけである。

参考 文部科学省科学技術・学術政策局の説明(2003年4月1日)

2)燃料製造施設──プルトニウム燃料第3開発室(PFPF)

 1994年の北朝鮮の核危機の最中に明らかになったもう一つのプルトニウム行方不明事態も忘れてはならない。これは、米国の核管理研究所(NCI)がウォレン・クリストファー国務長官に宛てた1994年5月4日付けの書簡のなかで、東海村のプルトニウム燃料第3開発室(PFPF)で投入した量と取り出された量の間に70kgの差があると明らかにしたものである。施設のあちこちに引っ掛かって残留しているというのである。この施設は、1988年10月に操業を開始し、高速増殖炉「もんじゅ」などの燃料棒の製造に使われた。1994年に4月に臨界に達した「もんじゅ」の燃料作りで特にこの差が広がったと見られている。施設の責任者は、残留は計測によって大体確認されていると説明したが、計測には10〜15% (7〜10.5kg) の誤差があるという。つまり、原爆1個分ほどの誤差がありうると言うことである。その後、クリーンアップが試みられたが、結局10kgほどは回収できないままとなった。

参考


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